月輪と罪食い人形
              (文章作成:いすや)
 
 
 
 
 ――しんだらかみさまのところへいきたい。
 病弱だった幼児が遺した言葉だ。
 最後の苦しみは終わり、今はベッドで眠るように目を閉じている。
 父親は号泣しながら幼児の小さな額に銀貨を乗せた。
 人間の罪を消す儀式だ。
 生まれてきた者すべては死ぬまでの間に罪を負う。成人なら、たとえ些細な過ちでも年月の中で重なり溜まる。子供なら、若くして亡くなること自体が罪だ。
 天に召されたければ、罪を全て地上に置いてゆかねばならない。
 そのための儀式として、人が死んだら額の上に銀貨を乗せる。全ての罪を銀貨に吸わせ、穢れなき者として神の元へ行かせるために。昔から続いているこの国の習わしだ。
 そして罪を吸わせた銀貨の始末の仕方にも、決まりがある。
「……もうすぐ『罪食い人形』が来てくれるよ。そうしたらお前は神様のところへ旅立てる」
 父親がそう言って幼児の髪を撫でたとき、家の扉が規則正しくノックされた。
 扉を開けると、黒衣を纏った者が立っていた。
 夜の色の髪、男とも女ともつかぬ美貌。若い人間の形をしたその者は、無言で深く頭を垂れた。
 幼児の家族は同じく無言でその者を家の中に招き入れた。
「ほんとう? ほんとうにお人形なの?」
 別室からひそかに覗いていた幼児の姉が、驚きの声を上げる。傍の老婆が、やさしく答えた。
「そうだよ、あれが『罪食い人形』。自動人形で、本当によくできている。見ていてごらん、今ぼうやの横にひざまずくよ」
 美貌の者は、老婆の言う通り作り物であった。
 ギ、という微かな機械音を響かせ、だがなめらかに歩く。弔いの灯りに照らされながら、死んだ幼児が眠るベッドまで近づいた。
 優雅な所作で人形がベッドの横に膝をつく。そうして死者へ向けて上半身を傾けた。
 黒衣の中から、白い形の良い手があらわれ、幼児の小さな額にそっと触れた。
 やさしげな、悼むようなまなざしが幼児に向けられる。髪と同じ、夜の色の瞳だ。
 父親の嗚咽がひときわ大きくなったその瞬間、人形は、小さな額に唇を寄せた。
 薄赤い、美しい唇が開いた。中に桃色の舌が見える。人形はゆっくりと舐め取るように額の上の銀貨を銜え、口の中へ納めると、ごくん、と飲み込んだ。喉元が動く。
「食べた! お人形、銀貨食べたよ、おばあちゃん!」
 幼児の姉が、抑えきれない叫び声を出した。老婆が涙を堪えるような声で答えた
「よかった……銀貨を飲み込んでもらうことで、今ぼうやの罪は完全に消えた。『罪食い』の儀式が済んだ」
 目元をぬぐいながら、老婆が続ける。
「昔は人がしていたんだよ。けれど人が銀貨を飲み込むとね、その者は『穢れ』なので国から出て行かねばならない。それが今は人形が代わりにしてくれるのだから、ありがたいことだ」
「じゃああのお人形は、穢れているの?」
「そうだよ、人形一体につき100人までの穢れを引き受けてくれる。あの人形も……もう何人もの罪を食べて穢れている」
「じゃあ国を追い出されちゃうの?」
「人形は追放ではなく、燃やすんだ。100人目の罪を飲み込んだ罪食い人形は、燃やしてしまうんだよ」
「燃やされるの?! あんなにきれいなのに! あんなに、人間みたいなのに!」
「それが『罪食い人形』の役目だからねえ」
 銀貨を飲み込んだ人形は、音も無く立ち上がると、再び深く頭を垂れた。艶やかな髪の下、白いうなじで何かが動く。
 よく見れば『98』という数字がある。その『8』の処が次第に上へずれてゆく。
 かちりと小さな音を立て、首筋の数字は『99』に変わった。



 黒衣の人形は、自らが作られた工房へ自分で戻った。工房の扉を規則正しくノックする。
 扉が開くと、不機嫌そうな表情の男が顔を出した。
「……遅い。設定の時間を過ぎている」
 人形は黙って頭を垂れた。
 発声器官はない。もちろん感情も。なので何の応答もありはしない。
 それでも、創造主である男には、人形が謝罪しているように見える。
「もういい、座れ」
 ぐいと冷たい手を引き、室内へ入れた。そうして長椅子へ放るように掛けさせる。雑然とした工房の中、その椅子の周りだけは綺麗に片づけられていた。
「苦情が来ないところを見ると無事に済んだらしいな。だが移動速度が遅い。ポンコツめ」
 神経質そうに眉を寄せ、男は人形の傍にしゃがみこんだ。
「脚を見せろ」
 言うと、人形は命令通り黒い衣をするりとたくしあげた。生きているとしか思えない、なめらかな長い脚があらわになる。
 人形師は一瞬目をそらしたが、それでもすぐに表情を引き締め、点検に取りかかった。
 腿の付け根辺り、つくりものの皮膚を指先で押し、その下の機構を探る。
「消耗しているな」
 思案しつつ工具を探そうとして、一度息をのみ、手を止めた。
 人形の顔を見る。気のせいか人形も、人形師をじっと見つめていた。
「どうする。皮膚を切り裂いて直すか。やめるか」
 夜のような深い色の瞳と目があった。胸が騒ぐ。せりあがってきた感情を鎮めるように息を吐いて、呟いた。
「……どうせ、次で100か」
 
 
 
 男はまだ青年の年頃だが、人形師としての経験は長い。
 物心つく前から機械いじりに没頭し、初めて自動人形作りに成功したのはほんの子供のときだ。それからは職業として罪食い人形専門の人形師となった。
 人形に関わるのは愉しい。
 人と触れ合うことより、ずっとずっと愉しい。
 『あのひと』がいなくなってからは、特にそう思うようになった。
 機械と人形作り以外のことはまるで無能の自分を庇ってくれた人。実の家族よりも、だれよりも、一緒にいて寛げた人。
 あのひとにとって自分は近所に住むただの幼馴染だった。
 こちらの気持ちを知られるわけにはいかなかった。
 だからあのひとが亡くなった知らせを聞いても、人形作りをしていた。亡骸を前に自分を保つ自信がなかった。死者にすら心が漏れるのを恐れた。手がふるえても、目が霞んでも、仕事に没頭した。
 その日完成したのが、目の前にある罪食い人形だ。
「……」
 男は、人形の腹部をぼんやりと見た。銀貨が収納される場所だ。今は99枚の銀貨がそこに眠っている。
 三年前、この人形は初めて『罪食い』を行った。
 そのとき飲んだ1枚目の銀貨。それは、あのひとの額に乗せられていたものだ。
「……そのせいなのか?」
 人形師は人形を見た。人形に性別は設定していない。特定の人間に似せたりもしない。
 なのに面影が、二重写しになってぼやける。
 日に日に人形があのひとに似てくる気がしてならない。濃い色の瞳が、やわらかく自分を見つめてくるような気がしてならない。
 そんなことが起こるはずはない。容貌の変化などありえない。
 自分の心が見せる幻影だ。
 ましてその幻影に、歓んでしまうなど……。
「ポンコツになってきているのは、俺か」
 男は笑おうとして失敗した。
「……眠れ」
 掠れた声で命じると、人形が目を閉じた。そして末端から徐々に体を弛緩させ、最後に上半身がゆっくりと長椅子に倒れこんでゆく。
 ふいに淋しさがこみ上げてきた。男は衝動的に人形の手を掴んだ。
 一瞬、その指先が握り返してきたような錯覚をおぼえた。
 作り物の頭が、かくんと揺れた。



 三日後、罪食いの依頼が来た。
 世話人が訪れた時、ちょうど裏庭で人形に手伝わせて菜園の収穫をしていた。昼間の晴天の下、男は弔いの報せを聞いた。亡くなったのは隣町の人形師だった。
「え」
 腕の良さで知られた同業者の訃報に、息を呑んだ。世話人が声を潜めて続けた。
「人形に入れ込みすぎたんだ。近ごろ彼女、三体ある人形全部の罪食いを拒否してたの、知ってるか」
 いや、と男は首を横に振った。
「『私の子ども達』にそんなことさせられない、って喚いてな。心の病だったんだろうが、それが体を蝕んだらしくて」
 気の毒なことだ、と、世話人が溜息をついた。
「どうかあの子達と一緒に眠らせて、という遺言では、彼女の人形に罪食いをさせるわけにもいかない。第一、製作者が入れた起動暗号の解除にも時間が要る。それで、今夜の弔いをここに頼みたいんだが……」
 そう言うと世話人は、男の背後の人形をちらりと見た。
「あんたのところは一体だけだったか」
「はい」
 人形は、屈み込んで青菜の収穫をしている。男が組み込んだ繊細な所作で、器用に手を使っている。
 世話人は、苦いもので飲んだような顔で、笑った。
「……罪食い人形が太陽の下で菜園仕事か。変わってるな」
「罪食い以外の動作の組み込みは、人形師の自由のはずです」
「確かにそうだ。だが、他であまり見たことはないな」
 世話人は目を見開き、男の目を覗き込むようにしてきた。
「……そうですか」
「あんたは腕が良すぎる。中でもあの人形はすごい。人間と見分けがつかない」
「……」
「噂ではじきに100になるとか……。もし都合が悪けりゃ他をあたるが、どうする」
 世話人がさらに、伺うように顔を見てくる。
 その視線から逃れるように、男は人形を振り返った。土の上に屈み込み、男の好きな青菜を慎重に詰み、手籠に入れている。傷んだものや、男の苦手な固い葉は選ばない。丁寧な仕事だ。つややかな髪が陽の光を跳ね返して輝いている。
 夜の色の髪、夜の色の瞳。やさしいまなざし。
 男は拳を握りしめた。
 目を閉じ、一度深く息を吸い、ひそかに吐き出す。
 男は世話人に向き直ると、言った。
「お引き受けしましょう。今夜でちょうど100人目になります」
「……そうか」
 低く言った世話人に向けて、男は続けた。
「明日、焼却の儀式を執り行います」
 言うと、世話人が神妙な顔つきで何度も何度も頷いた。
「それがいい。彼女のように情がうつる前に、燃やしてしまうのがいいだろうよ」



「良かった」
 世話人が帰ったあと、男は呟いた。
「これで良かった。良かった」
 陽光を受け止めるように両掌を広げ、何度も確かめるように繰り返す。
 そうして、人形に目を当てた。人形は菜を詰めた手籠を持ち、立ち上がったところだった。まるで次の指示を待つかのように、男を見ている。
 この人形の罪食いを止めさせる。100まで飲み込ませないまま、人形と一生を過ごす。
 そんなことを、考えたことがないと言えば嘘になる。
 だが人形に亡き人の面影を重ね、思い入れるなど、してはならないことだ。人形師にとって禁忌だ。
「いや……」
 違う、と男は唇を噛んだ。
 もっと深い本音がある。
 もう、『あのひと』のことだけではない。
 人形は『あのひと』に似てきている、と思う。
 だが、まったく似ていない時もある。『あのひと』を忘れていることさえある。
 どちらでもいい、と思ってしまっている。どちらにしても、自分はこの人形に惹かれている。あのひとよりさらに深く、やさしく見えるまなざしに。つくりものだと分かっているのに。
 あのひとへの思いと、人形への思い。
 どちらも確かに自分の中に存在している。
 その二つに引き裂かれ、いずれ自分は壊れてしまうのではないか。
「……」
 おそろしい、と思った。
「俺は、生きていかなければならない」
 口に出さずにはいられなかった。
 人は命ある限り生き続けなければならない。自ら自分を壊すことは、神の御心に反する。神の教えに背いてはならない。神は絶対だ。
 男は目を閉じ、口の中で祈りを唱えた。そうしながら自らに言い聞かせた。
 人形に100人目の罪を飲み込ませ、終わりにする。
 そして明日といわず、今夜のうちに焼却しよう。
 気付くと、頬が濡れていた。自分が泣いていることに驚く。感情とは連動していない涙だ。していないはずだ。
 男の背後、裏庭の一隅には、もう工房に入りきらない膨大な作りかけの機械や部品が積み重なり、日差しを反射していた。
 人形駆動装置のもと。腕。耳。脚。
 機構はできているが、組みあがってはいない。どれひとつとして、完成していない。
 今の人形より、もっとあのひとに似た存在ができてしまうのが怖い。
 何より今の人形と、ふたりでいたい。
 身のうちにあるそんな感情に、男は固く蓋をしている。
 男はもう、新しい人形を作ることはできなくなっていた。



 夕暮れの林道を、人形とともに歩いた。
 人形は男の歩調に合わせ、だが少し遅れてついてくる。左脚の辺りから、ギ、ギ、と部品の擦れる音がしていた。
 立ち止まって振り返ると、人形もまた歩みを止めた。
 冷たい風が吹き抜け、人形の髪を揺らしている。傾いていた夕陽は雲に隠れ、辺りは急激に暗くなった。雨になりそうだ。
 闇をうつした目を見ないようにしながら、男は言った。
「急げ」
 雨よけを持参していない。人形は濡れても特に問題はないが、むやみに濡らしたくはなかった。
「この先だ」
 林道は緩い登り坂になっている。木々に囲まれた道を登りきり、平らな場所を少し行くと隣町が見える。そこからは下り坂が始まっている。
 男と人形は町を見下ろす坂の上で脚を止めた。
「行け、そして再びここへ戻ってこい」
 男はそう言って人形の腕を取り、操作をした。到達点と、帰還点の設定だ。
「しくじるなよ……」
 最後だからな、と続けようとして、男は唇を噛んだ。声がふるえようが何だろうが、命のない人形に聞かれてもどうということはないのに、それでももう声を出したくなかった。
 ぐ、と喉が詰まる音がする。口元を片手で押さえ込もうとしたときだ。
 突然人形が動きだした。
 両手を腹の辺りで揃え、体を折り始めた。ゆっくりと、頭が下がっていく。
 人形は、男に向かって深く深く頭を下げた。
「!」
 男は息を止めて人形を見つめた。
「どう……して、そんな動きは」
 組み込んだ覚えはない。到達点を入れたら、すぐに歩きだすのが通常の動作だ。
 こんなに深く、まるで召使が主人にするかのような恭しい礼をして。そんな所作など入れていない。
「……」
 呆然としている男の前で、人形は頭を上げた。
「は……、なんだ、別れの挨拶のつもりか」
 もちろん答えはない。
 だが、まるで何かを伝えたいかのように、深い吸い込まれそうな色の瞳が男をひたと見つめている。
 気のせいか、口元に微笑が浮かんでいる、ように見える。
 激しい動悸を覚え、男は自分の胸の辺りの衣服を掴んだ。
 落ち着け、と心の中で繰り返した。おそらく、いや間違いなく、自分が組み込んだ動作なのだろう。最後の出発命令を出したら、その時こんな風にするようにと。過去の自分が遊びで組み込んだものだ。翻弄されるな。
 長く長く息を吐き、男は人形の背後へまわった。
「行け!」
 両手に力を籠め、背中を押した。
 かすかな音を立てて人形が前へ歩き出す。
 濃い色の髪と黒衣の姿は、仄暗い景色に溶け込むようにすぐに見えなくなった。



 ほどなく雨が降り出した。
 幾筋もの水滴が、男の髪から額、頬へと伝ってゆく。
 全身を雨に打たれながら、男は坂の上に立ち尽くしていた。
 弔いの行われる女人形師の家。町はずれのその家は、ここから見えるはずもない。だが、視線を動かすことができない。
 勝手に口から呟きが漏れた。
「帰りは濡れる。乾かさなければ」
 あの髪を、顔を拭いて。よく暖めて。
 そこまで考え、男は口元を歪めた。
「ああ、いいのか……べつに濡れていても」
 どうせ明日には焼かれる。焼却の炎をは強い。あの腹におさめた100枚の銀貨が溶けるほどの高温だ。
 男の脳裏に、過去の人形焼却の光景が蘇った。自ら焼いたものもあれば、神官に任せたものもある。幾つもの記憶がある。
 人形の焼却には特殊な液体燃料が使われる。黒々としたその液体に人形を浸し、火を放つ。
 すさまじい熱だ。
 はげしい炎が人形をつつみ、一瞬で……。
「……っ」
 経験のない戦慄が身の内を走った。自分が焼かれるかのような恐怖と、そして、強烈な喪失感。
「う……ぅ」
 突き上げるような焦燥で、体が震えだす。
 一歩を踏み出すと、濡れた地面がずるりと滑った。
 それでも、もう足を止めることができなかった。男は、降り続く雨を裂くような勢いで駆け出していた。
 
 
 
 裕福な一族の末裔だという女人形師の弔い場は、瀟洒な屋敷の広間だった。
 何本もの灯りがともる中、広いベッドに初老の女が寝かされている。額の銀貨は世話人が乗せたものだ。
 広間には町の人々が集まっていた。身寄りのなかった女人形師を気の毒がって参列した者もいるが、ほとんどは、まるで生きているようだと評判の人形の、100番目の罪食いを見たい、という好奇心で集まった者達だった。
 規則正しいノックの音が響き渡る。
 傍にいた者が広間の扉を開けると、人形が現れた。髪からも黒衣からも、かなりの水が滴っている。弔いのため開放されている屋敷の扉から広間まで、ずっと濡れた跡がついていた。
「おお、あれが……」
「本当に、まるで……」
 ざわめきが広がる広間の中を、死者の眠るベッドを目指し、人形は優雅に歩いた。



 肺が破裂しそうだ、と男は霞む意識の中で思った。
 激しい雨の中を全力で走り、何度か転んだ。泥まみれになるのと、雨で洗い流されるのを繰り返しながら、町のはずれまで来た。
 やがて屋敷が見えてきた。同業として、資材の遣り取りに一度だけ訪れたことのある屋敷だった。
 ひときわ明るく灯りのついた部屋がある。大勢の人影も見える。咄嗟に叫びたくなった。
「……っ!」
 人形に名前は無い。だが、名前を呼びたい、と苦しいほど思った。
 夢の中にいるようにうまく運べない足で、それでも男は屋敷の中へ急いだ。
 開放されていた屋敷の扉から中へ入ると、一つの部屋の前に人だかりが出来ていた。罪食いの見物に来た連中だとすぐに思い至る。そこへ飛び込み、人を掻き分け、男は部屋の扉を開けた。
 最初に目に入ったのは、ひざまずいている人形の姿だった。
 今まさに、亡き人の額に手を添えようとしている。
 目の前で罪食いの儀式が行われようとしている。
 「やめろ!」
 声を振り絞って叫んだ。
 好奇交じりの人々の、ひそやかなざわめきが満ちていた広間は、男の一声で静まり返った。
 人形が、一瞬、ぴくりとふるえた。
 いつもならば、人形は男の命令により即座に動きを止める。
 だが、今日は止まらなかった。すぐに行為を再開した。白い手が、死者の額へ添えられてゆく。
「やめろ、やめろ!!」
 二度、叫んでみた。それでも動きは止まらない。『罪食い』の行為は人形にとって最も重要な動作だ。そのためなのか、どうしても命令を聞き入れない。
 幾本もの灯火の中、雨に濡れたつややかな頭部が、死者へ向けて近づいてゆく。
「やめろ、やめろ……やめ……!」
 男は人形へ向かって駆け出していた。
 人形の優美な唇が、銀貨の上で開く。少しだけ舌を出し、舐めとるように銀貨を銜える。
 自分が組み込んだ動きだ。だからわかる。人形は銀貨を口の中へ納めると、すぐに……。
 男は、人形の頭を両手で掴むと、唇に自らの唇を押し当てた。
 冷たく固い銀貨を噛む。
 男は人形から唇を放すと、立ち上がった。
 髪から滴ってきた水が目に入って視界がぼやける。それでも男は、広間にいる人々を見回した。口に銜えた銀貨がよく見えるようにした。
 目を閉じ、天井を向く。そして口を閉じると、喉を見せつけるようにしながら銜えた硬貨を飲み込んだ。
 外の風雨の音だけが大きく響く。見物していた者全てが呼吸を忘れてしまったかのようだった。
「……っ、飲み込んだぞ!!」
 ようやく誰かが叫んだ。
 それでやっと、堰を切ったように人々の叫びが広間に溢れ出した。
「穢れだ! 穢れだ!」
「罪を飲み込んだぞ!」
「早く外へ!」
 何人かの者がやってきて、男を取り囲んだ。皆顔に恐れの色が浮かんでいる。
「……」
 自分は人間でなくなったかのようだ、と、男は他人事のように思っていた。そっと、呟いてみる。
「俺は、穢れた」
 自分の両手を見てみた。特に何も変わったところはない。それでもこの身は穢れた。神の元へは行けなくなった。
 近寄ってきた老人が、厳かな声で言った。
「罪食い人形から罪を奪って飲むなんて、気でも違ったか」
「……」
 男は答えなかった。なぜか不思議な満足感が、胸を満たしていた。
「追放!」
「国外追放だ!」
 罪の銀貨を飲み込んだ人間は、この国で生きることは許されない。穢れとして、国の外へ追放される。罪食い人形が普及したため久しく行われなかった因習だが、その掟は人々の心の中に強く根付いていた。
 男は何人かの者に羽交い絞めにされ、後ろ手に縄をかけられた。衣服以外何を持つことも許されず、このまま国境まで引き立てられ、追い出されるのが決まりだ。
 扉から引きずり出される前に、男は一度後ろを振り返った。
 人形はベッドの横で、男が口付け、銀貨を奪った瞬間のまま、動きを止めていた。
 突然に罪食いの動作を止められ、誤作動が起きたのかもしれなかった。
 目を見開き、わずかに唇が開いているのが、まるで驚いているような表情に見える。
 人々に連れ去られる最後の瞬間、男は人形の表情を目に焼き付けた。
 
 
 
 人形は主人と暮らした工房の裏庭へ捨て置かれた。
「起動暗号の解除? そんな難しいこと、誰が」
「しかし99で焼却するわけにも」
「よりによって死んだのも追放されたのも人形師とは。非常事態だ」
「南の町まで依頼しに行かなくては」
 何人かの者が自分を囲み、相談しているのを、人形の耳が感知した。
 主人とは……違う声だ。
 覚醒と停止の間の状態で、分析し結論を出した。再び、停止状態の闇の中へ意識が落ちてゆく。
 主人は帰ってこない。
 『穢れ』という言葉を何度も聞いた。どうやら主人が『穢れ』というものになり、それがために自分の前からいなくなったらしい。
 日が暮れ、朝になり、また夜になった。
 夜の闇に紛れるようにして、一人の人間が人形の前にやって来た。そして人形に話しかけてきた。
「随分と思い切ったことをしたな、お前の主人は」
 この人間は知っている。いつも弔いの依頼に来る世話人だ。主人の話に、人形の体の内部が反応した。
「国の外といっても地獄じゃあない。外の世界には流浪の者なりの流儀があるらしいから、そうすぐに飢えはしないだろう。だが……」
 世話人はそう言って口を噤むと、星空を仰いだ。
「まあ、無事を祈るしかないが」
 溜息をついて、人形の前にしゃがみこむ。そして、声を潜めるようにして言った。
「知っているか。穢れた人間の罪は、罪食い人形が引き受ければ浄化することを」
 入った情報の整理と記録が始まる。じわりと、人形の体内の機構のどこかが熱を持ち出した。
「穢れた人間の額に口付ければ、その罪を引き受けることが出来る。もっとも、生きた人間の罪を飲み込めばそれは人形を内側から焼く炎となる。人形は自分の炎で燃え尽きる」
 人形は、聞いた言葉を次々と分析した。関連付け、記憶を定着させる。
 世話人は、人形が聞いているのを確信しているかのような声で、続けた。
「真偽のほどは定かじゃないがな。単に人形が暴走したら自分で燃え尽きる仕組みなだけかもしれんが。昔どこかの人形師に聞いた話だ」
 重大な秘密を教えるように、世話人は人形に囁き続けた。
「ともかく、お前が燃えて、溶け固まった銀貨の塊、それを持ち帰れば、あいつは国に帰れる。浄化された者として、再び神を信仰することができる」
 そこまで言うと、世話人は立ち上がった。そして少し戸惑ったように笑った。
「こんなこと、人形に聞かせても仕方ないのにな」
 つい言いに来たくなった、と呟いた。
「本当にあいつはたいした人形師だった」



 世話人が帰ると、辺りは闇と静寂に包まれた。
 男が育てていた菜園の前に座り込み、俯いた格好で人形は置かれていた。
 その頭部が、かすかに動いた。
 続けて、手首。足首。
 末端から駆動が始まってゆく。
 本来は、創造した人形師自身が組み込む起動暗号無しには動かない。しかし今、人形自身が制御できないほどの強烈な力で、起動が始まった。
 人間達の信じる『神』などというものは、人形にはわからない。
 人形にとって、大事なものは自分を作った主人だけだ。
 ただただ、主人の元へ行きたい。
 そして、世話人のもたらした情報に基づいて主人を『浄化』したい。
 その意識が、膨大な力になって人形を突き動かす。
 月明りの下、人形は音を立てて立ち上がった。



 一歩足を出すごとに、脚の部品の軋む音がした。
 国境近くの森を抜け、荒れ地に出てからもう何度昼と夜を過ごしたのか。軋みはひどくなっている。纏っていた黒衣も汚れて、擦り切れがひどい。
 脚が重い。体が重い。
 特に体幹が重いような感覚があった。
 自分は『罪食い人形』だ。だが、罪も穢れの概念もよくはわからない。
 ただ銀貨を飲み込むたび、腹にそれが溜まるたびに、冷たい重さを感じるようになった。現実的な重量として大した負荷ではないはずなのに、内側から苛まれるような感覚が確かにあった。
 明らかに補修が必要な状態だ。
 それでも、不思議なほど湧き出る力によって、人形は前へ進み続けた。
 植生の無い、岩ばかりの荒れた土地が遥か先まで広がって見える。
 雲の間から丸い月が出てきた。月の光が、人形の足元を仄かに照らす。
 その時、左の脚部が音を立てて軋み、動かなくなった。体の均衡を崩し、固い岩場の上に人形は倒れ込んだ。それきり、どんなに動かそうとしても、右脚しか動かなくなった。
 少し停止していれば回復するのか、もう駄目なのか。駄目ならば片足で進もう。両足とも駄目になったら次は腕を……。
 人形は倒れ込んだまま目を閉じた。
 声を出したい、と唐突に思った。
 口を開けてみる。舌を下顎に貼り付け、発声の形をとってみる。
 もちろん、何の音も出なかった。発声器官がないのだから、当然だ。
 それでも、発声の真似を繰り返した。
 人間のように。
 もし声が出たら、名前を呼べる。歌を歌える。力の限り歌ったら、風に乗って主人の元へ届くかもしれない。
 見つけてほしい。見つけたい。
 主人を浄化したい。主人の罪の炎に焼かれたい。
 あのひとは、自分のそんな思いを受け入れてくれるだろうか。
 100枚目の銀貨を、身代わりとなって飲み込んでくれたあのひとは。



 霧が立ち込めてきた。
 辺りが灰色に霞んで見える。
 本当の霧なのか、人形の眼の機能の不調なのか、それももう、定かではない。
 景色がよく見えないせいなのか、思考までも曖昧になってきた。記憶と、現実とが入り混じる。
 これはどんな状態なのだろう。
 人間が見る、夢というのはこんなものなのか。主人がよく眠りながら、微笑んだり、うなされたりしていたけれど。
 ときどき風で霧が散り、月が見える。
 それも、不安定になった視覚が見せる幻なのだろうか。
 現実の全身は損傷と疲弊で動かすのは難しいが、この状態の中ではとても気分が良い。どこまでも行けそうな気がする。
 これが夢というものなら、悪くない。
 人形は、体の力を抜いた。
 視覚が相変わらず定まらない。不鮮明な視界の中、ある光景を見た。
 荒野の向こう、遥か彼方から、誰かがやってくる。
 最初は歩いて、やがて徐々に駆け出して、こちらへ向かってくる。
 その足音を聞くだけで、人形の中いっぱいに幸福感が広がった。
 今なら立てる。歩ける。そこへ行きたい。
 そう思って体を起こそうとしたが、うまく動かなかった。動かせたのは右腕だけだった。
 すると思いがけず、その手があたたかいものに包まれた。
 ぬくもりが人形のつくりものの体に染み渡る。人形は、指先をわずかに動かしてそのぬくもりに応えた。
「ポンコツが……」
 なつかしい声がした。
 人形が目を開けると、夢の中のひとは、とけるように笑い、そして月の光のような涙をこぼした。





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